映画『恋とボルバキア』―― “本当の自分” という幻想を静かに暴く

 

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2017.12.06

映画『恋とボルバキア』―― “本当の自分” という幻想を静かに暴く


マイノリティ・シネマ・リポート Vol.9

『恋とボルバキア』メイン画像



「みんなちがって、みんないい」。金子みすゞが詩に詠んだ有名な文句は、その便利さからさまざまな局面で消費されてきました。ことに「多様性」という文脈においては、もはや手垢がついた表現といってもよいくらい頻繁に目にするフレーズです。しかしながら、本当に「みんなちがって、みんないい」と考えている人はどれだけいるでしょうか。「みんなちがって、みんないい」と言うとき、その人は、自分自身もまた「ちがって」いる一人だという自覚が本当にあるのでしょうか。
 
今回は、12月9日(土)より公開のドキュメンタリー映画『恋とボルバキア』をご紹介します。

みんなちがって、みんないい、ってみんな言う。

『恋とボルバキア』には、「みんなちがって、みんないい、ってみんな言う。」というキャッチコピーが添えられています。これは映画の内容を一言で表す、本当にすぐれたコピーだと思います。
 
「みんなちがって、みんないい」というフレーズがどこか空々しい、陳腐なものに感じられてしまうのは、やはり、それを言っている人の背後に「社会」の大きな影が見えてしまうからではないでしょうか。自分はあくまで「ふつう」の立場から、いわば観察者の視点から、「そういう人がいても、まあ、イイよね」と認めてあげている感じ。
 
この、否定することではないんだけどなんかイヤ〜な感じを的確に捉え、非常に鋭く批評してみせるのが「みんなちがって、みんないい、ってみんな言う。」のコピーであり、『恋とボルバキア』という映画です。
 
たとえばこの映画では「女装」がひとつの大きなテーマとなっており、女装を生活の一部とする人が多く登場します。しかしひとくちに女装といっても、登場人物たちが女装をするようになった理由や、女装の仕方はまったくもって異なっています。
 
女装している時だけ「自分が輝いている」と感じられるようになった「みひろ」。かつて妻子を持っていたが、女性になりたいという思いを捨てられなかった「蓮見はずみ」。成長期に自分を引き取ってくれた養父を慕う気持ちから、だんだんと女装をするようになった「井上魅夜」。東日本大震災をきっかけに、50代にして女装を再開した「相沢一子」。
 
スクリーンに映るそれぞれの生活を見ていると、これらを「女装」という共通項で括ることの意味のなさがひしひしと感じられてきます。すくなくとも「女装」などという要素ではとうてい括りきれない。「みんなちがって、みんないい、ってみんな言う」けれど、その「ちがい」として想定されているのはどこまでなのか。誰が「いい」と言っているのか。『恋とボルバキア』を見ているとまず、そうした問いが浮かび上がってきます。
 
『恋とボルバキア』の登場人物、みひろ
 

「ふつう」の恋愛模様

タイトルからもわかるとおり、『恋とボルバキア』にはさまざまなかたちの恋愛模様が映っています。みひろは、成人向け女装雑誌の編集長に片思いの恋心を抱いています。妻子のあった蓮見はずみは、数年後、レズビアンの「じゅりあん」と付き合いはじめます。井上魅夜は、性同一性障害のパートナーと交際しています。
 
登場人物たちはそれぞれの立場で、それぞれの恋愛に向き合い、喜び、悩みます。みひろも、はずみも、井上も、セクシュアリティとしてはたしかにマイノリティなのかもしれません。ところが映画を見ているうちに面白い気づきがあります。それぞれが恋愛するなかで抱える悩みの本質が、わりと「ふつう」なのです。
 
あえて「ふつう」という言葉を使いましたが、言い換えれば、マジョリティの人々、ヘテロセクシュアルである人々の恋愛における悩みと変わらないということです。
 
みひろは思いを寄せる男性がなかなか振り向いてくれないことに悩んでいますし、はずみは交際相手のじゅりあんに「子供がほしい」と言われ困惑します。井上はパートナーが性別適合手術のためにタイへ渡ることになり、見送りに行った空港で泣き崩れます。
 
片思いの煩悶、家族計画の相違、旅立つ恋人とのしばしの別離(あるいは大切な人の手術)――個人的な事情は違えど、これらはどれもセクシュアリティにかかわらない、すべての人に起こりうる悩みではないでしょうか。マイノリティとマジョリティを分けていた境界が、恋愛模様の描写を通して徐々に曖昧なものになってゆきます。
 
『恋とボルバキア』より、向かい合って寝る登場人物
 

ならば自分は何者か?

『恋とボルバキア』を見ながらあらためて気づかされるのは、世間が決めた「ふつう」という括りにはまったく何の根拠もない、という事実です。
 
人は物事を理解するために区別をします。すべてがグラデーションであり、混沌でしかない世界のなか、名前をつけることでやっと人は一つの「色」を認識できます。人はそうして自分以外の他者も区別してきたのでしょうし、逆に他者を区別することで「自分」というものを作り上げてきたのでしょう。
 
しかし区別するということがそもそも何の根拠も持たず、ただ人が物事を理解しやすくするための便宜的な手段にすぎないのだとしたら――つまり「分ける」という行為があくまで「分かる」ための方法にすぎないとしたら――いままで自認してきた(つもりの)「自分」とは、いったい何だったのか。『恋とボルバキア』はまるでキャッチボールのように、問いかけが観客である自分へ跳ね返ってくる映画です。
 
劇中、井上を古くから知る友人が、なかば独り言のようにこう言います。
「本当の自分がわかってる人って、どれだけいるのかな」
 
また、男性でも女性でもない生き方を選んだ「王子」は、将来のことを尋ねられこう答えます。
「わからないです、急にどうなっちゃうか」
 
多くの人に共有されている「ふつう」の範囲。それを決める境界線がじつはとても曖昧な、頼りないものであったことに気づく時、こんどはそれによって定められていたはずの「自分」そのものが揺らぎます。自分などというものは、本当は驚くほど不安定で、頼りなく、ほとんど社会的な関係性における「たゆたい」のようなものでしかない。2人の短い言葉はそれぞれ、多くの人が気づかないままでいる、あるいはなるべく見ないようにしている事実をしっかりと見据えるものでした。
 
『恋とボルバキア』より、歌舞伎町を歩く登場人物
 

ボルバキアの意味

最後に、『恋とボルバキア』の「ボルバキア」とはいったい何なのでしょうか。
 
ボルバキアとは、「宿主を性転換させる共生バクテリアの一種」だそうです。そんなバクテリアがいるなんて知りもしませんでしたが、『恋とボルバキア』とはこりゃまた上手いタイトルをつけたもんだな……と思います。
 
『恋とボルバキア』を見てつくづく感じたのは、「ふつう」という概念や「括る」「分ける」という行為そのものの脆さです。拠りどころ(だとこれまで思っていた境界線)がそもそも存在しなかったことに気づく時、「だったら自分は何者なのか?」という問いが立ち上がります。それはある種の「越境体験」なのかもしれません。
 
宿主に性別の垣根を越えさせてしまうのがボルバキアならば、先述したような「越境体験」を観客にもたらす『恋とボルバキア』は、文字通りの意味でボルバキア的な習性を持った映画だといえるのではないでしょうか。
 

『恋とボルバキア』
出演:王子/あゆ/樹梨杏/蓮見はずみ/みひろ/井上魅夜/相沢一子/井戸隆明
監督・撮影・編集:小野さやか
プロデューサー:橋本佳子/熊田辰男/森山智亘
製作:DOCUMENTARY JAPAN/LADAK/Blue Berry Bird
配給:東風
©2017「恋とボルバキア」製作委員会

公式HP:http://koi-wol.com
2017年12月9日(土)よりポレポレ東中野にてロードショー、ほか全国順次



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