「身体としての性」をナナメ読み

 

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2018.07.04



 こんにちは、はじめましての方ははじめまして、「LGBTsナナメ読み!」を担当させていただいている古怒田です(「ナナメ読み」についてはこちら)!

 今回は、以前お話した性別違和のキッカケとなるような「身体としての性」についてよりナナメ読みしてみたいと思います。


 

コントロールの外部


 「身体としての性」とは骨格や体型、生理現象など成長過程と共に形成されてゆく身体です。もちろん、このような身体もそのひとのおかれた社会や文化を生きてゆくなかで、男や女、あるいは別の性という性の意味づけがされてゆきます。
 衣服や振る舞いのような「身体になった」も同じように性の意味づけがなされますが、いくつか違いがあります。

 まず、「身体としての性」は、早期ホルモン治療などを行わない限り、当人の「コントロールの外部」で変化してゆくということです。たとえば、ボクは生まれつき女性ホルモンの比率が高いため、背が低く、骨格がしっかりと形成されませんでした。そのため、衣服を選ぶときは女性ものになっていましたし、筋肉がつきづらいため暴力の対象になることも時にありました。


 

「自己責任」へのすり替え


 このように「身体としての性」は自分が好きに描けるものというよりも、「背負わざるを得ないもの」だといえます。そして、この背負わざるを得ない「身体としての性」から生じるのが「性別違和」のひとつの特徴だと思います。
 自分ではどうしようもない体毛の濃さ、吐き気をもよおす生理といった「身体としての性」が「違和」として降りかかってくるとき、ひとは、時にその身体を何らかの仕方で「変態transform」させようと試みます。これまでお話したようにこの「トランス」は男女への「移行」の場合もあれば、男女の「超越」の場合もあるでしょう。そうしてひとは背負わざるを得ない「身体としての性」との付き合い方を変えてゆきます。

 ところで、このような「身体としての性」が喚起する違和への応答が「自己決定=意志」でありある種の「自己責任」だと読み取られる場合があります。たとえば、ボクが女装をすることはボクが望んでしていることなのだと。
 確かに、それは事実です。けれどもそこから「自己責任」ということは必ずしも導き出されないと考えます。


 ボクがこんな話をするのはアメリカではジャニス・レイモンドが『トランスセクシャルの帝国』(1979)を出版して以来、フェミニズムやレズビアンコミュニティから「トランス」は既存の男女観を強化する自発的行為として告発されてきたからです。
 当人の「自己決定=意思」とは関係なく生まれてしまった「身体としての性」への応答が、「トランス」を選択したという理由にすり替えられ批判可能な「自己責任」へと差し替えられてしまうのです。


 

関係性


 これまでジェンダーやセクシュアリティの議論がなされる場合には、振る舞いや衣服のような文化的、社会的性が問題になっていました。けれども、そのような性が内在する身体自体は完全には管理不可能な身体でもあります。そして、そのような「身体としての性」のコントロールできなさは、個々人において多様です。ボクのようにホルモンの場合もあれば、生殖機能の場合もあるでしょう。

 こうして「身体としての性」を基準にしてみてゆくと「トランス」とは、単に「男女になりたい」という自発的行為であるだけではなく、各人がつねにすでに背負ってしまっている性的な身体との個別的な向き合い方でもあるのだと思います。そうであるならば、「トランス」は「自己責任」の分脈ではなく、誰もがもつ個別的な身体との「関係性」の問題としてとりあえげるべきなのではないでしょうか(もちろんここでの「関係性」には他のひとびとや環境も含まれます)。そうすることで、フェミニズムやレズビアンコミュニティへの応答が「トランス」において可能になるのではないでしょうか。このような問いで今回のナナメ読みを綴じたいと思います。

WRITERこの記事の投稿者

古怒田望人

LGBTsナナメ読み!

ジェンダークィアのパンセクシャル。都内で、マジョリティ、マイノリティの垣根を越えて性を共有する哲学サロン「ふらてるにて」を運営。
 

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