「トランスすること」をナナメ読み

 

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2018.03.28

「トランスすること」をナナメ読み

 
 こんにちは、はじめましての方ははじめまして、「LGBTsナナメ読み!」を担当させていただいている古怒田です(「ナナメ読み」についてはこちら)!
 今回は「トランスすること」についてナナメ読みしてみたいと思います。
 
 

「トランスする」って?

 
 しばしば、トランスジェンダーは、自らの行為を、「トランスする」といいますが、いったい「トランス」とは何を意味するのでしょうか。今回はこの「トランス」という言葉をめぐってナナメ読みしてみたいと思います。
 
 

「トランス」の多義性

 
 「トランス」は、ボクの考えでは、大きく分けて二つの意味に分類することができると思います。一つ目が、移行transitionと言う意味で、もう一つが超越transcendという意味です。というのも、「トランスtrans-」とは、英語の接頭辞で「移ること」あるいは「超越すること」を意味するからです。それゆえ、「トランス」という言葉は一枚岩ではない多義的な言葉であることがわかります。
 

 

「移行」としての「トランス」の問題


 ところが、「トランス」を「移行」として捉えたとき、ある面で、問題が生じます。というのも、ある性別(女性/男性)から別の性別(男性/女性)へと「移行する」と言う意味で「トランスする」ことは既存の男女規範をより強いものにしてしまう可能性があるからです。たとえば、ボクが脱毛をすることは「女性は毛深くあってはならない、脱毛しなさい」という女性に向けられた規範に乗っかってしまう行為になります。電車の広告に無数に張られている脱毛ポスターが呼びかけている「女性は脱毛すべき」という規範的なメッセージを「移行する」と言う意味での「トランス」は、ある意味で、実践してしまうことになります。
 それゆえ、以前も紹介しましたが、フェミニズムなどから、この「移行」という観点から、男女規範を強化する存在として「トランスすること」が批判されることがあります。
 
 
 

「読まれること」のススメ

 
 このような批判に対抗して、「トランスすること」を男女の規範から「超越すること」として捉えようとする試みがあります。すなわち、男女の「男/女はこうあるべき」という規範を超越し、侵略transgressするような行為として「トランスすること」を理解する試みです。
 このような「トランスすること」の理解をラディカルに表明している一例が以前紹介したサンディ・ストーンです。ストーンは以下のように語ります。
 


「だがここで私がトランスセクシャル(注:ここではトランスジェンダーと同義)に言いたいのは、パスをやめ、「読まれる」方を意識的に選ぼう、そして、自分で自分を声に出して読んでいこう、ということなのだ。」

(カリフィア,パトリックほか『セックス・チェンジズ トランスジェンダーの政治学』石倉由+吉池祥子ほか訳 作品社[2005],525)

 
 ストーンはここで「パス」つまり、「移行」した性別で「読まれる」ことをあえて拒絶しようと呼びかけています。言い換えれば、「普通の男性/女性」ではなく、男女の性別を超越し、侵略している存在、「トランスジェンダー」として他者から「読まれる」べきだと説いているのです。そうすることで、「トランスすること」を男女の規範から「越境、侵略すること」として捉えようと試みているのです。
 たとえば、ボクはジェンダー・クィア(社会、政治、文化的な性を変えてゆく性のあり方)としてあえて「読まれる」ことをしています。例えば、一人称を「ボク」(これは本当は「ボクッ子」から来ているのですが)としながら女性的な表現をしたりしています。そうすることで規範的な性のあり方から「超越、侵略すること」を試みています。
 

「読まれること」のリスク

 
 とはいえ、「読まれること」には当人にとってリスクが伴うのも事実です。たとえばボクは、先日女の子のお友達と飲み屋さんにいったのですが、普通に女子会プランを提示されました。この時、ボクは、戸籍上男性でありながら女性とみなされるという意味で、ジェンダーを「超越、侵略」しています。けれども、「女子会プランを受け入れる」という行為は「女子会」という社会が作り出した男女規範に乗っかっている行為でもあります。つまり、ストーンの言葉を借りれば、ボクはここで「読まれること」を回避したことになります。

 ですが、女子会プランを提示されたとき、「ボクは実は男なんです」という事実を周知させることはボクの存在をお店に「カミングアウト」するというリスクを伴います。
 今のボクは、自分のことをカミングアウトし続けて、上記のようなリスクに出会っても闘えるだけの「自信」があります。
ですが、それがない若いころのボクだったらどうでしょうか?そして、例えば、ボクが女子トイレや女性専用車両をもし利用した際に生じるリスクにどう対応すればよいのでしょうか?
 ストーンは「パスを捨てろ」、「読まれろ」と強く宣言しますが、現実はもっと複雑なものだと感じます。
 
 

相互的な関係性としての「トランスすること」

 
 さて、こうみてゆくと「トランスすること」は大変両義的で複雑な行為であることが分かります。
 ボクも日々、この「トランスすること」の複雑さに悩みます。先ほども書きましたが、ボクは脱毛をしたいのですが、その欲望が男女規範を強化する行為だとも強く感じ抵抗を覚える面があります。
 明快な答えを出すことはここでは難しいですが、二つだけボクの考えを述べたいと思います。


 一つ目は、個人的な観点と社会的な観点を切り分けて考えることです。個人的な観点ではどこかで男女の規範に乗っからざるをえません。ボクもジェンダー・クィアを自称していますが、髪を伸ばしたり、お化粧を色々研究したりして女性規範に乗っかっています。こういった「移行」としての「トランス」は、ひとがある特定の文化や社会を生きている以上、不可避的なことです。何の文化や社会も無い世界を想像するのは難しいことです。文化や社会が形成する「男/女」のありようは、姿勢や振る舞いといった身体の部分にまで関わる根本的なものです。けれども、逆に、その文化や社会を、その構成員として、変えてゆくことはできます。ひとは文化や社会のなかにつねに巻き込まれていますが、逆を言えば、文化や社会にアプローチできる存在です。個人の単位では自分が置かれている状況(文化、社会)と折り合いをつけつつも、社会の単位として「超越、侵略」としての「トランスすること」は可能だと思います。


 二つ目は、この「トランスすること」をめぐる問題それ自体がある効果をもっているということです。「トランスすること」が両義的であるのは、それが男女の規範との複雑な関係、言い換えれば文化や社会との両立や対立を孕むからです。「移行すること」としての「トランスすること」も、「超越すること」としての「トランスすること」も、個人のもつ「欲望」と、それを形作ったり否定したりする文化や社会という規範との関係性(ないしは対立)です。だから、「トランスすること」をめぐる問題は、性をめぐる欲望と規範との関係性を見えるものにする効果があります。つまり、「トランスすること」は性にかかわる問題を可視化させることに繋がります。
 「トランスすること」、その行為が孕む両義的な問題にはおそらく答えを出すことができないと思います。というか、何らかの「正解」を定めた瞬間に特定の「トランスすること」を排除することに繋がってしまいます。


 ボクが今、上記の二つの主張から言えることは、「トランスすること」は決して個人単独で収まるものではなく、文化や社会、あるいはもっと身近なひとびととの「相互的な関係性」からなる行為だということです。「トランスすること」は、ジェンダー・アイデンティティあるいは個人の権利の問題であるといわれて久しいですが、この「相互的な関係性」からもっと語ってゆく必要があるのかもしれません。こんな問いを残して、今回のナナメ読みを綴じたいと思います。



 
Writer's Info

 古怒田望人(こぬた あさひ)

 ジェンダークィアのパンセクシャル。大阪大学大学院でフランス現代思想とトランスジェンダーにかかわる研究をおこなっている。
 また都内で、マジョリティ、マイノリティの垣根を越えて性を共有する哲学サロン「ふらてるにて」を運営。
Twitter:@ilya_une_trace

 

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